LOGIN七日後、南区孤児院の洗濯場の小窓を見に行く日が来た。
予定表には、たった一行で書かれていた。 ――南区孤児院、洗濯場小窓再確認。 それだけである。 王宮の大きな予定表の中では、あまりにも小さい。 同じ日には、王太子府の再教育報告、ベルナール分家の補填金処理、夫人会臨時窓口の新様式確認、救貧院の冬季支援第二便、薬草園の匂い欄付き記録試行も入っていた。 それらに比べれば、小窓ひとつの確認など、些細に見える。 けれど、エレノアはその一行に赤ではなく、青の印をつけていた。 青は継続確認。 重要度ではなく、忘れてはいけない約束の印だ。 最初に窓布を掛けた日、ロウ夫人は言った。 洗濯場は湿気が多く、布が傷みやすい。 だから七日後に見る。 その約束を守る日だった。セレスティア・ヴァレンシュタインは、帳簿が嫌いだった。 嫌い、という言葉すら少し違うかもしれない。 怖かったのだ。 数字は、言い訳を聞いてくれない。 この支出は娘のためだった。 この髪飾りは誕生日の贈り物だった。 このドレスは王太子妃候補として必要だった。 この茶会は公爵家の体面のためだった。 この謝礼は夫人会との関係を保つためだった。 そうした言葉を、数字はひとまず横へ置く。 金貨何枚。 銀貨何枚。 支払い元。 承認者。 名目。 不足した費目。 延期された修繕。 そこに、涙は書かれない。 母の愛情も、娘の笑顔も、社交界の視線も、王太子妃候補としての焦りも、帳簿の数字には直接は載らない。 だから、セレスティアは帳簿を見ないできた。 見なかったのではない。 自分では、そう思っていた。 家政は家令が整えるもの。 当主が最終承認するもの。 公爵夫人は、家の顔と娘の装いを整えるもの。 細かな数字は専門の者が見るもの。 そう言い聞かせていた。 けれど王家監督下に置かれた今、その言い訳はもう通じなかった。 監督官ヘルマンは、王都屋敷の南側応接室を臨時の確認室に変えていた。 かつては夫人たちを招いて茶を飲んだ部屋だ。 薄い香りの茶、季節の菓子、花瓶、柔らかな会話。 今、机の上にあるのは茶器ではなく、帳簿だった。 リリアナのドレス帳。 装飾品記録。 教育費名目支出表。 社交費再分類案。 使用人宿舎暖房修繕延期記録。 そして、リリアナ本人が付けた青、黄、赤、白
リリアナがドレス帳を開く日が来た。 それは、誰かに命じられたわけではなかった。 王家監督官ヘルマンから、公爵家の支出再分類資料は届いていた。 リリアナの社交費。 教育費。 装飾費。 茶会準備費。 王太子妃候補としての体裁維持費。 そして、セレスティア夫人が「必要」と判断した細かな支出。 それらの一覧を見るだけでも十分だった。 数字は冷たい。 銀貨何枚。 金貨何枚。 仕立て代。 宝飾修繕費。 髪飾り代。 舞踏靴代。 季節ごとの外套。 茶会用手袋。 王宮挨拶用の淡色ドレス。 夜会用の刺繍入りドレス。 数字は、言い訳をしない。 けれど、数字だけでは分からないものもある。 そのドレスを着た日の気持ち。 母に褒められた記憶。 鏡の前で少しだけ自分を好きになれた瞬間。 エレノアが忙しそうに書類を読んでいる横で、自分だけが新しいリボンを選んでいた後ろめたさ。 全部が混ざっている。 だからリリアナは、自分から言った。「ドレス帳を見たいです」 北翼の執務室でそう言った時、エレノアはすぐには頷かなかった。 机の向こうで、姉はしばらくリリアナを見ていた。「今、見る必要がある?」「あると思う」「つらくなるかもしれないわ」「たぶん、なる」「全部を自分の罪にしないと約束できる?」 リリアナは、すぐには答えられなかった。 それを約束するのは、少し難しかった。 だって、自分のために使われたお金だ。 自分が綺麗だと言われたくて
ヴァレンシュタイン公爵家の監督報告は、いつも重い。 紙の量が多いからではない。 もちろん、多い。 領地税、家政費、使用人給金、宝物庫、社交費、分家支援、王都屋敷の修繕、領地の橋、冬前の穀物管理、前当主時代から続く寄付名簿。 公爵家というものは、血筋だけで立っているわけではない。 帳簿の上にも立っている。 むしろ、帳簿を見れば、その家が何を大切にし、何を見ないふりをしてきたかが分かる。 だから、重い。 父の家を見ることは、父の言葉を聞くよりも重い時がある。 北翼の執務室で、エレノアは王家監督官ヘルマンから届いた中間報告を開いた。 表紙には、簡潔にこう記されている。 ――ヴァレンシュタイン公爵家監督報告。 ――当主権限停止後、第一期整理。 ――提出者、王家監督官ヘルマン・グラーツ。 隣には、リリアナが座っていた。 今日は見学ではない。 本人関係者として、一部説明を受ける日だった。 ただし、すべてを見せるわけではない。 家の財産や使用人の個人情報には、閲覧範囲がある。 つい先日作ったばかりの「必要以上に知らないことも保護の一部」という考え方は、公爵家監督にも適用される。 リリアナには、自分に関係する教育費、社交費、王太子妃候補工作に関わる支出、そして今後の生活費に関する部分のみが共有される。 それでも十分に重い。「緊張している?」 エレノアが尋ねると、リリアナは素直に頷いた。「しています」「見たくないなら、今日はやめてもいいわ」「見ます」 答えは早かった。 けれど、手は少し震えている。「知らないままに戻り
王太子府の机に、開封されていない封筒が一つ置かれていた。 白い封筒だった。 封蝋には、王妃基金の仮印と、保護記録担当者の細い確認線が入っている。 表には、こう書かれていた。 ――限定記録。 ――閲覧段階、第三段階以上。 ――開封には理由記録が必要。 ユリウスは、その封筒をしばらく見つめていた。 封筒は黙っている。 当然だ。 紙なのだから。 だが、その沈黙がやけに重かった。 王太子府再教育の今日の課題は、限定記録と閲覧権限。 つまり、「知らない義務」を学ぶ日だった。 以前のユリウスなら、その言葉を聞いて首を傾げただろう。 王太子が知らないことを選ぶ? 民を守る立場の者が? 国の中枢にいる者が? むしろ、できる限り知るべきではないのか。 そう思ったはずだ。 実際、今も半分はそう思っている。 知らなかったから、王妃の療養薬は見落とされた。 知らなかったから、ダリウスに利用された。 知らなかったから、王妃基金の不正も、夫人会の別口資金
灰色の少年が、もう一度救貧院へ来た。 その知らせは、フィオナ司祭からの短い伝言として北翼へ届いた。 ――仮名「灰色」の少年、再訪。妹の熱は下がりつつあり。臨時雇用相談を希望。本人より、リリアナ様が同席可能なら話したいことがあるとの申し出。 リリアナは、その紙を読んでしばらく黙った。 手帳を開く手が、止まっている。 灰色。 あの日、本名を言いたくないと小さく答えた少年。 妹が熱を出していると言い、麦と薬草茶を受け取った少年。 名前の代わりに、自分で選んだ仮名。 リリアナが初めて「本名を無理に聞かない記録」を書いた相手だった。「私が同席していいの?」 リリアナは、エレノアを見た。 エレノアは伝言の文面を確認し、静かに頷いた。「本人が望んでいて、フィオナ司祭が同席するなら。ただし、あなたが聞く役ではなく、立ち会う役よ」「立ち会う役」「ええ。話を急がせない。名前を聞き出そうとしない。本人が話す範囲を尊重する」「分かってる」 リリアナは、そう言いかけてから少し言い直した。「分かっているつもり。だから、フィオナ司祭に従います」「それでいいわ」 エレノアは少しだけ表情を柔らかくした。「行く?」「行きます」 返事はすぐに出た。 怖さはある。 けれど、行かないという選択はなかった。 あの日、自分が書いた記録が、次へつながった。 ならば、その次を見届けたい。 救貧院へ向かう馬車の中で、リリアナは手帳を見返していた。 ――灰色さん。妹が熱。薬草茶。仮名記録。本名申告困難。次回、フィオナ司祭担当。
薬草茶の配布は、朝のうちに止まった。 まだ誰の手にも渡っていない。 救貧院の棚にも、孤児院の保管箱にも、療養施設の湯沸かし場にも届いていない。 だから、被害は出ていない。 ただし、問題は出た。 王妃基金の北翼窓口へ、夫人会から緊急連絡が入ったのは、朝食後まもなくのことだった。 差出人は、デリア・ラングフォード侯爵夫人。 内容は短い。 ――匿名口頭受付にて、療養施設向け薬草茶の香りが前回と違うとの申告あり。 ――配布前に一時停止。 ――薬草品質確認部門へ照会済み。 ――ガスパル氏、乾燥不足の疑いありと仮判断。 ――本日午前、正式確認希望。 エレノアは、その報告を読んだ時、まず安堵した。 止まった。 配る前に。 けれど、その次にすぐ別の重さが来た。 止めたということは、届くはずだった薬草茶が届かないということでもある。 療養施設では、寒さや不眠、胃の不調を和らげるために、その薬草茶を待っている者がいる。 救貧院でも、体を温めるために必要としている者がいる。 不良品を配ってはいけない。 だが、止めたなら、止めた理由を伝えなければならない。 代替品を探さなければならない。 ただ「安全確認のため延期」と書くだけでは、現場は困る。 昨日までの夫人会なら、こう書いただろう。 ――諸事情により配布を延期いたします。 それでは足りない。 諸事情では湯は沸かない。 理由のない延期は、不安を増やすだけだ。 エレノアは、机の上の報告書を閉じた。「オスカー。薬草品質確認部門、夫人会、救貧院、療養施設の担当者を集めてください。小